週刊カメラーズ・ハイ!【アーカイブス】『オリンパス・ペン 1959-2009』(前編)
┃週刊カメラーズ・ハイ!【アーカイブス】『オリンパス・ペン 1959-2009』(前編)
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~こちらの記事は2010年7月9日に掲載されたものです~
◆進化し続けるペンのDNA ー「ペン」誕生秘話ー
オリンパスが初代ハーフ判カメラ「ペン」を発売してから50年目の今年にデジタル時代の
「ペン“E-P1”」を発売。
ペンのDNAを受け継いだマイクロ一眼により、「ペン・シリーズ」が新たに歩きだしました。
家にあったライカ「Ⅲf」を使う、写真を撮ることが大好きな少年がいました。
当時、その超高級品ライカを手に、少年は写真を撮ることに熱中していきます。
やがて大学生になり機械工学を学ぶものの、写真を撮ることに明け暮れる日々は
変わらないまま将来に不安を覚えます。
そんな頃、在学中に出願したカメラの特許がオリンパスの創始者である桜井栄一氏の
目にとまり声がかかる事に。
すでに届いていた自動車会社からの採用通知を撥ね退け、青年はオリンパスへ入社を決意。
彼こそ、のちの「ペン・シリーズ」設計者、米谷美久(まいたに・よしひさ)氏です。
1956年に入社、2年間の研修を終えた米谷氏はカメラ設計に携わります。
「なにか設計してみろ」と先輩から課題を出され、自分なりに考えひとつの問題点に気づきます。
当時、サラリーマンの平均月給が約2万5千円。日本製のカメラが2万~7万円。
ライカなどはその倍以上の値段で販売されていました。
米谷氏の初任給が1万5千円だったので月給の半分以下、6千円のカメラを作ろうと思い立ちます。
こうして米谷氏のカメラ設計の取り組みが始まりました。
35ミリフィルム1コマの1/2サイズで撮影(例:36枚撮り→72枚撮りが可能)するという、
かつてない発想のもと、ボディを小型化する事に成功。
レンズはコストを考えず「とにかくライカに負けない最高のレンズを」とレンズ設計者に依頼。
愛用していたライカのレベルにこだわる事で名レンズ「Dズイコー」が誕生します。
巻き上げやシャッター機構など簡素化することで低コストに抑える事が出来ました。
ただ製品化しようとした時、工場長は「作らない!」と拒絶される羽目に。
仕方なく発売当初は外注で生産することになります。
そして1959年、「ペン・シリーズ」初代機となる「オリンパス・ペン」が誕生します。
レンズの優れた描写力と携帯性、また他に比べて手が出しやすい事もあり、多くのユーザーに
支持される事になりました。
サブ機としてプロカメラマンに重宝されたのも、その実用性を証明されたからではないでしょうか。
ちなみに当時の広告文句は、「小さくって、軽くって」「さりげなく持ち歩け、気軽にパチパチやれるんです」
だったそうです。
その後、「ペン」は小型化と携帯性を追求し、使いやすさに徹底したモデルをシリーズとして発売。
1960~70年代にかけて空前のハーフカメラブームを引き起こすことになります。
(後編につづく)