【極私的カメラうんちく】第17回:写真機は未来を予測する
突然だが、デジタルカメラの液晶モニターが写真技術を退化させると言ったら驚かれるだろうか。
当たり前のことだが、フィルムカメラは撮影の瞬間には結果が判らない。現像をしてみるまでは誰もがその結果を知ることは出来ない。このことは言い換えればフィルムカメラが撮影者に未来予測の力量を要求しているといえる。
今も昔も撮影者にとってイメージを画像に昇華するための技術や経験値は重要な力量である。特にカメラが名実ともにブラックボックスだった写真の黎明期には、その技術のあまりの特殊性から写真家はある種神格化されて扱われていたほどである。
ご存知のとおりその神秘性は次第に失われてゆくことになるが、その過程においては現在に至る多くの写真技術が生みだされてきた。この期間、写真はカメラや感材の改良と同時に、その技術の改良と伝承を繰り返してきたのである。つまり写真の歴史とは未来予測技術の進化伝承であり、またこの期間のカメラの進化とはおしなべて撮影者の予測能力を補助したり、人間が持つ予測能力をカメラに機能として内蔵する試みの連続であったといえる。予測技術の利用範囲は単に失敗写真を作らないというレベルから、イメージ通りの写真を撮影するためのクリエイティブな判断材料とする場合まで様々だが、いずれにせよ撮影の瞬間にはその結果が判らないこと、それこそが写真技術ひいてはカメラの進化行程最大の原動力だったことについては議論の余地が無い。一眼レフについて言えば、涙ぐましいまでの改良努力を繰り返してきた光学ファインダーや、複雑で高度な評価測光システム、さらに極限まで進化したスピードライトの自動調光機能に至るまで、いまやカメラそのものが予測機能のかたまりとも言える。
しかしもし写真がその成り立ちからして撮影結果を数秒後には知りうるものであったとしたら、果たしてこれほどまでの予測機能が現在のカメラに実装されていただろうか。
極論すれば、カメラのデジタル化の影響とは単に撮影結果の保存先が電子情報となって媒体移行しただけでは無く、フィルムカメラがこれまで計り知れない試行錯誤の末に手にいれてきた未来予測機能を、その優先度において大きく格下げしてしまったことにある。
例えるなら、完成までは絶対に蓋を取ってはいけない料理を作っていた時代から、いつでも「味見」が出来る料理へと、写真の哲学が大きく変貌してしまったのである。その意味でデジタル化はAEやオートフォーカスといった、フィルムカメラが成し遂げてきた「自動化改良」とはその趣を大きく異にしている。
もちろん一切の撮りなおしが出来ない一発勝負の状況においては、デジタルカメラであってもフィルムカメラと同等の予測機能が必要である。だからこそ現在もあらん限りの予測機能を満載したデジタルカメラが続々発売されているのだが、「試し撮り」が許されている大半の撮影状況では、フィルムカメラが培った予測機能の殆どが少なくとも「必要不可欠」では無い。
また液晶モニターによって画作りの試行錯誤が撮影現場で自由に出来ることに間違いはなく、有効に利用されればそれはこの上無い便利な道具である。より良い結果を得るための参照としての存在意義自体を否定するものではない。しかし問題は、これまでの写真技術が「手探り」の作業環境を原点として磨かれてきたとするならば、結果がすぐに得られる環境によって今後はその大きな原動力の一つを失ってしまうところにある。液晶モニターが「その場で確認」以上の使われ方をされない限り、この先写真技術の奥深さなど知らずともよい環境が、ただ拡がってゆくだけになりはしないだろうか。
カメラが作品を作るための道具である一方で、写真には記録という重要な使命がある。そのためには便利で安全な作業環境の追及はこの先も続いてゆくことだろう。しかし趣味性と実用性は、本来使用者自身が選択するべきものなのである。
一つ言えるのは、予測技術の必要性を大きく失った今、使用者が写真技術の探究心を失った時こそが、再びカメラがブラックボックスに戻る時だということである。