【極私的カメラうんちく】第27回:改良文化の美学
日本の産業文化は「改良文化」と言われて久しい。
確かに1950年代から70年代へかけての高度成長期の日本では、欧米で発明された商品を国内で改良し、大量生産して海外へ輸出をする政策が採られていた。自動車や家電製品など、現在それらの製品の多くが海外に生産拠点を移しているにせよ、その基本的な構図に大きな変化は無い。
カメラもその例に漏れず当時は欧米、特にドイツのお家芸と云われた精密金属加工技術や光学技術を次々と習得し、性能が良く安価で頑丈なカメラを次々に生産し輸出してきた。その頃欧米では、自国市場を席捲するアジアの小国の製品を指して『日本人には「改良」は出来るが「発明」は出来ない』という、「やっかみ」に近いとしか思えない評価が生まれた。また、同様の評価は当時の日本国内にも蔓延しており、マスコミや初等教育の現場にすら、欧米の発明家を偉人として奉る風潮が多分にあったように思う。真面目に技術改良に挑んでいた日本の技術者にとっては、なんとも気の毒な時代だったと言える。
しかし、その「改良」によって世界史にその名を刻んだ欧米人がいる。
蒸気機関の画期的改良で巨万の富を築いたジェームズ・ワットである。
イギリスの発明家ニューコメンによって製作された蒸気機関は、1769年にワットの「復水器」のアイデアによって、飛躍的に効率の良い蒸気機関へと改良を遂げた。この改良によって、それまで「馬」の代わり程度だった蒸気機関の役割は一変し、その後の産業革命の原動力となったことは歴史的事実として広く認知されている。
しかしもう少し詳しくその歴史を紐解くと、この偉大な発明品の複雑な生い立ちを見ることが出来る。
シリンダーとピストンを用いるレシプロタイプの蒸気機関は、沸騰する水から湧き出す水蒸気の圧力そのものを利用する正圧式と、水蒸気が水に戻るときの負圧を利用する真空減圧式に分けられる。ワットが改良を施したのはニューコメンが製作した真空減圧式の蒸気機関だったが、ニューコメンの蒸気機関ですら、それ以前に他人が発明した原始的な真空減圧式蒸気機関を改良したものだったのである。
ちなみにエジソンの「発明品」として名高い「電球」も、それ以前の発明品にエジソンが実用的な改良を施したものである。
レンズ交換式カメラの形式は一眼レフが圧倒的な主流となっているが、数十年前には距離計連動型のレンジファインダー機と一眼レフが、市場を二分していた時代があることはご存知だろう。そのどちらもが日本のメーカーの「発明」では無いことは明らかだが、こと一眼レフに限っては、その実用性を今日のレベルまで高めたのが日本人の改良文化であることは、これもまた事実である。クイックリターンミラーや自動絞り機構、また開放測光機能といった、今や完全に死語として一眼レフの仕様に埋没するほど基本的な機能は、デジタル全盛の現在においても一眼レフとして必須の機能であり、それらの技術全てを開発、実用化してきたのは、1950年代から70年代の日本のメーカーの改良努力だった。幸か不幸か、これらの改良努力は一眼レフに集中することになったのだが、もしそのエネルギーの半分でもレンジファインダー機に注がれていたとしたら、現在のカメラ事情がどうなっていたか、全く想像すらできない。
そういった意味においては、場当たり的で一過性の価値しか持たない「発明」や「改良」がある一方で、「発明」の意義を本質的に高め、永く人類の道具としての命を与え続ける「改良」は、そのまま発明に匹敵する「偉業」と呼ぶべきなのではないだろうか。
また技術が複雑になればなるほど、純粋に発明と呼べる行為は難しいものになる。そのため大幅な改良部分を指して「発明」と呼ぶことは、昨今では珍しくない。
特に産業革命以降は、エジソンの例を引くまでも無く「発明」と「改良」の区別は後世の歴史家の評価によるところが大きい。つまり発明と改良に厳密な区別は存在せず、極論すれば当時の「発明者」は、本質的には大幅な「改良」を行っていたのである。そして産業革命以後に開国した日本が、いかに高い技術をもってしても欧米から改良文化と呼ばれるのは、むしろ当然の事である。
日本の一眼レフ技術が欧米を追い越してから、既に半世紀以上が経つ。そろそろ一眼レフは日本人が発明したと言われる日が来ても良いと考えるのは、筆者だけだろうか。