【極私的カメラうんちく】第41回:コーティング技術が開放するレンズ設計技術
光学ガラスの表面はどんなに磨き上げられていても4%程度の反射率を持っている。そのため写真レンズなどの光学製品には、反射防止のためのコーティング技術が導入されていることはよく知られている。
僅か4%の反射率といっても、単レンズは表と裏にそれぞれ2面の反射面を持つため、たった4枚の単レンズを組み合わせただけで8つの反射面が出来てしまう。そしてそれぞれの反射面で4%の透過光を失ったとすると、4枚構成のレンズでは28%程度が反射によって失われてしまうことになる。またそれぞれの表面で反射した光は映像にコントラスト低下やゴーストといった悪い影響を及ぼすため、非常にやっかいな相手である。そこで反射防止コーティングの技術が無かった19世紀末から20世紀初頭には、設計段階で反射面を出来るだけ減らす努力がなされた結果、出来るだけレンズの枚数を減らすか、もし枚数が増えてしまった場合には、2枚のレンズ同士を貼り合わせて少しでも反射面を減らす設計が多く見受けられることになった。
反射防止コーティングの歴史は、19世紀の末にイギリスのテーラーが、レンズ焼けに因る表面の侵食を起こした天体望遠鏡のレンズが、レンズ焼けを起こしていないものよりも透過率が高いことを発見したことから始まるといわれている。その後単層薄膜による反射防止の理論が確かめられ、1940年代以降の光学製品にはフッ化マグネシウムなどの薄膜を蒸着したものが出回り始める。単層膜による反射防止の原理は、レンズにコーティングした薄膜によって、レンズからの反射光と位相を1/4ずらした反射光をわざと作り出し、それをレンズからの反射光と干渉させることによって双方を相殺するというものである。単層膜による反射防止は入射光の角度や波長がある程度制限されているが、理想的な条件であれば反射率を1%程度まで減らす効果を持っている。しかしレンズ表面に薄膜を作る過程には真空蒸着の技術が不可欠だったため、その理論が確かめられた後も製品化されるまでにはしばらくの時間が掛かった。
なにはともあれ単層膜による反射防止技術によってレンズ設計の自由度は飛躍的に向上し、複雑な光学系の大口径レンズやズームレンズなどがより積極的に作られるようになった。反射防止コーティングの技術革新は、既存のレンズ性能を向上させるのみならず、優れた反射防止技術を前提とした新たなレンズ設計手法を可能にするのである。
その後単層膜を上回る反射防止コーティング技術として登場したのがマルチコート(多層膜)であり、その技術の発祥は1960年代の宇宙開発まで遡るという。単層膜の理論を発展させ、入射光の波長域を自在に設定することが可能なマルチコート技術は、反射光を0.1%程度まで抑えることが出来るとされている。マルチコートの技術が初めて写真レンズに実用化されたのは1970年代以降であり、その後あっという間にカメラ業界のスタンダードとなって次々と各メーカーに導入されていった。当時各社のマルチコート技術にはそれぞれに名前がついており、キヤノンがスーパースペクトラコーティング(SSC)、ミノルタがアクロマチックコート(AC)、フジフイルムがエレクトロンビームコーティング (EBC)、ペンタックスはスーパーマルチコート(SMC)、そしてカールツァイスはT*(ティースター)と呼んで自社の技術を商標化していた。いわばマルチコート技術とは、当時誇るべき最先端技術だったのである。このうちT*やEBC、SMCの商標は、現在も製品名称に見ることが出来る。またニコンやオリンパスのマルチコート技術には当時特別な呼称は無かったが、レンズの名称に(C)や(MC)を付けて、やはりそれ以前の製品とは区別していた。このように一気に乱立したマルチコート技術だったが、中でもペンタックスの前身である旭光学が発表したスーパーマルチコート(SMC)は、マルチコートといえばせいぜい2-3層だった時代に、いきなり7層からなるマルチコート技術を発表して世間を驚かせたのである。
その後もマルチコートは改良を重ねて現在に至っているが、優れた反射防止コーティング技術がやはりレンズ設計に大きく貢献していることに変わりは無い。10倍を超える高倍率ズームレンズはマルチコートの技術が無ければ絶対に作ることが出来ない。
ところが2005年にニコンがAF-S VR Nikkor ED 300mm F2.8G(IF)に始めて採用した「ナノクリスタルコート」は、それまでのマルチコート技術をさらにしのぐ反射防止性能を持っていた。一般のマルチコートや単層膜の反射防止技術は、原理上垂直に入射する光に対して最大限の効果を発揮する。そのため大きな入射光の角度によっては殆ど効果が無い場合があるが、ナノクリスタルコートは大きな曲率を持ったレンズの周辺部など、大きな角度で入射する光に対しても高い反射防止効果を持っているという。ナノクリスタルコートは、もともと巨大で曲率の高いレンズを何枚も組み合わせて作られたステッパーレンズのコーティング技術として開発された歴史を持つ。その原理はこれまでのものとは大きく異なり、ガラスの表面に雷おこしのように空気を含んだ、粗くそれでいて非常に薄い膜(その厚みは光の波長レベルの話であるが)をつくることによって、レンズ表面にガラスと空気の中間的光学性質を持たせているという。そしてその中間的性質をもった膜によって反射を大幅に抑えることに成功したのだそうだ。※㈱ニコンホームページより
ナノクリスタルコートが採用されたニッコールレンズには、「N」の文字をデザインした金色のエンブレムが誇らしげに輝いている。そこには他メーカーが商標をとって自社のマルチコートを誇示した時代にも別段商標を取ることすらなかったニコンが、ナノクリスタルコートを完全自社開発の別格の技術として扱う誇りと意気込みが伝わってくる。しかしかつて殆どの光学メーカーが短期間に単層膜やマルチコート技術に追従したように、ナノクリスタルコート技術にもいずれ追従するメーカーが現れるのだろうか。
そして新しい反射防止技術普及の歴史が繰り返されるとすれば、今はまさに新しいレンズ設計手法が開放されようとしているその時なのかも知れない。