【極私的カメラうんちく】第26回:眼差しが導く進化論
ヒトの眼の構造はよくカメラに例えられる。
レンズと絞りと撮像素子に相当する組織が、カメラと全く同じに配列されたヒトの眼の構造を見ると、なるほどそう思う。
意外に知られていないことだが、ヒトの眼を光学系として見た場合、水晶体はそれほど大きな屈折を行っているわけではない。屈折の大部分を担っているのは眼の表面にある角膜である。その代わり、水晶体はカメラの絞りに相当する「虹彩」を挟んで角膜の後方に位置し、主にピント調節の役割を担っている。またピント調節のために水晶体が厚みを変化させることはこれまた有名な話だが、絞りの後方のレンズ群がピント調節を担っていることは即ち、昨今のカメラ技術論的に言えばヒトの眼は「リアフォーカス方式」の光学系といえる。リアフォーカス方式は、最小限のレンズ駆動でかつレンズの全長を変化させずにピント調節を行う方式として、インナーフォーカス方式と同様1980年代にAF一眼レフの登場と同時に実用化された。ところが人類がその英知を結集してようやく得た技術を、なんと人体は遥か以前から既にその体内に獲得していたのである。
また近年は、角膜がなんと非球面レンズの性能をも有しているとする研究もあり、ヒトの眼がもつ神秘性を紐解いてゆけばゆくほど、とてもヒトの眼が生身の組織で構成された「臓器」であるとは、とても思えなくなってくる。
19世紀の博物学者ラマルクは、自説の進化論で「生物は自らが望む方向へ進化する」と唱えたが、その説は後にダーウィンの進化論によって完全に否定された。
しかし、生物が光を感じる器官としての眼は、その生物が持つ必要性に応じて様々な形をとっている。原始生物に見られる光の有無を感じ取るだけの「眼点」など単純なものから、昆虫に多く見られる「複眼」や、ヒトをはじめとする脊椎動物が持つ複雑で精密な、その名も「カメラ眼」まで実に幅広い。そしてそれらは全て、それぞれの種に与えられた生存環境に適した構造と機能を備えているのである。特に脊椎動物が持つ光学的に高度な構造を持つ眼をみる限り、ラマルクが唱えたように、生物が自ら望んで獲得したものと考えるのが自然に思えてくる。さらに言えばそのあまりにも精密で合理的な構造には、進化論や科学を飛び越えた先ある「創造主」の気配さえ感じとれるほどである。
それにしても興味深いのは、たとえば人類の偉大な創造物である飛行機が、その黎明期には鳥を模して創られたのに対して、これだけ「眼」と構造が似通ったカメラが「ヒトの眼」を模して創られたものではないことである。カメラの始祖はカメラオブスキュラという写生用の道具であり、その後の進化行程においても解剖学的な見地から技術的な助言を得たとなどいうことは、筆者の知る限り聞いたことが無い。いかに解剖学と写真術がかけ離れた分野であったとしても、参考にする機会が全く無かった訳では無いだろうに。いずれにせよ、カメラとヒトの眼はそれぞれ独自に最も科学的に合理的な最良の解を求めて、偶然同じ結論に達したのである。全く発生の異なる生物群同士が同じ環境に適応するために、お互い知らぬ間に偶然同じ構造や形に進化することを、進化論では「擬態」と区別して「収斂(しゅうれん)進化」と呼ぶ。収斂進化は「飛行」や「潜航」といった、物理的に制約を伴う運動能力を持つ生物間に多く見うけられるが、ここで問題になる光学的分野も、その制約の性質からは同じ範疇といえる。生物界の収斂進化の実例としては、イルカとサメなどがその好例だが、カメラとヒトの眼の場合は、まさに機械と生物間の収斂進化と呼ぶに相応しい。
かつて「眼は露出した脳である」と言った著名な脳科学者がいる。外界の情報の、実に70%以上を脳に伝える眼。その構造と機能は単なる臓器や器官といった概念を超えた、特別な存在であるという意味である。
もしかすると、人類の脳、則ち「眼」は、自らの姿を記録する装置として、自らの姿に似せて「カメラ」を創造したのかも知れない。