“写ってさえいればいい” と思う。
笑われるかも知れないが、これは大真面目に私の信条だ。
誰しもが毎日写真を撮るわけではないが、多くの人にとって写真は日常にある。先ほどもスーパーの屋上駐車場で夕陽を撮ってる人がいた。彼女はそれをSNSに投稿したかもしれないし、誰かに送って感動を伝えたのかもしれない。使うカメラこそ何であれ、写真は人々の生活の一部であることを実感する。
写真家にとっての写真は、その作風は使う道具であるカメラに依る割合が大きい。機材の選択も含めての作風だが、その最たるはレンズということになるだろう。
私が人物の写真を撮るようになったのは10数年ほど前のことだった。それまでは気の赴くままに風景写真やスナップを撮っていた。だが大切な人々が立て続けに旅立ってしまう。優しかった伯父さん、従兄弟のお兄ちゃん、仲が良かった友人も若くしていなくなった。自分も含め明日の運命は誰にもわからない。走ることに精一杯で周囲を見渡す心の余裕のなかった私は、大切な人や何気ない日々の尊さにようやく気づきはじめた。いつでも再会できると思っていたり、会っても照れや遠慮が邪魔をして撮らず終いだった。せめて一枚でも撮っておけば良かったと悔やんだ時は既に遅かった。
だが悲しい別ればかりではない。家族や友人たちが家庭を持ち、新しい命にまみえることも少しずつ増えた。歳をとるのも悪くはなかった。小さな命は無条件に未来であり希望そのものだった。瑞々しい生命に触れるにつれ、私は“生”がどれほど尊いものかを身に沁みて思うようになったのだ。撮るべきものは目の前にあった。
ことさらに想いを寄せてきたスコットランドでも、撮ろうとしたのはその地に住まう人々とそこに息づく生命だった。出会いのすべては、その一つ一つが幸せな瞬間だった。彼らと心通わせた時間が確かにそこにあったことを、その時々の写真たちが思い出させてくれる。
ライカのレンズたちは、そのどれもが際立った個性を持つことで知られている。どんな表現を求めるかによって、どの個性を選択するかという愉しみがある。それは焦点距離やF値では測ることのできない個性だ。
特に『ノクティルックス M50mm F1.2 ASPH.』の描写には驚かされた。このレンズの作り出す柔らかく美しい描写は、大切な瞬間をドラマティックで情感たっぷりに表現してくれたのだ。
私がずっと大切にしている写真がある。それはまだ3歳の私が母と祖父母と一緒に写っている写真だ。それは父が撮ったものだがピントはまるで合っておらず、お世辞にも上手な写真とは言えない。だけどその写真は優しかった祖父母たちと過ごした幼い記憶を温かく呼び戻し、私をタイムスリップさせてくれる。写真に父はもちろん写っていない。でもその写真からはカメラを構えた父の眼差しをも感じることが出来る。私にとってはかけがえのない宝物なのだ。一番大切なことは、はたして何を写し残してゆくのかを忘れずにいたい。
誰かを大切に愛おしく想いながら写真を撮る。そんな想いが物理的に写真に写ることはないが、叶うなら心に深く残って欲しいと思う。後の人生で写真を見返す時に、撮影した日の光景やその時代のことを思い浮かべて欲しい。その写真が必ずしもバッチリのピントで完璧な構図である必要はないだろう。写真の価値はそれだけではないからだ。
その人にとってかけがえのない写真になること、そんな宝物を撮り残すことが出来たなら…、誰にとっても大きな喜びではないだろうか。それはきっと難しいことではない。
“写ってさえいればいい” のだから。