【極私的カメラうんちく】第37回:マクロレンズ今昔物語
一眼レフメーカーには「接写」に特化した性能を持つレンズが必ずラインナップされている。マクロレンズと呼ばれる分野である。またマクロレンズには、焦点距離別のラインナップがあり、大抵のメーカーでは50ミリ程度の標準系と100ミリ程度の中望遠系の概ね二種類がラインナップされていることが多い。そして場合によっては200ミリ程度の望遠系がラインナップされている場合もある。焦点距離の違いは、ワーキングディスタンスと呼ばれるレンズ先端から被写体までの距離に反映する。望遠系のほうが離れた位置から同じ倍率の撮影が可能になるが、必ずしも望遠系が有利というわけではない。被写体に近づけた方が有利な条件もある。しかし筆者の場合は、ワーキングディスタンスよりもむしろ背景の写る範囲や被写界深度を意識してマクロレンズの焦点距離を使い分けている。
ちなみに一般のズームレンズに付けられている「マクロ」の名称や、ズームレンズの最短撮影距離付近を指す「マクロ領域」などの言葉は、単に近づいて撮影が出来るといった意味であり、マクロレンズとして設計されたレンズと同等の性能を有するという意味ではない。
つまりマクロレンズとは単に近づいて撮影が出来るレンズではなく、様々な面で一般のレンズよりも厳しい規格で設計されているのである。そのためマクロレンズ開放F値は、同じ焦点距離の一般レンズに比較して比較的暗めに設定されることが多い。マクロレンズの開放F値はかつて1950年代から70年代まではF4程度が一般的だったが、80年代のAF化以降は標準系、中望遠系ともにF2.8程度に収まることが多くなった。しかしオリンパスが80年代にOMシリーズにラインナップした開放50ミリ F2と90ミリ F2の2本のマクロレンズは、1/2倍までの接写能力ではあったが同世代の標準的なマクロレンズの開放F値が3.5~2.8程度だったことを考えると特筆に価するといえよう。この2本のマクロレンズは、近年ようやく同じオリンパスのフォーサーズZUIKO Digital 50mmF2やZEISS製の50mmF2と100mmF2のマクロレンズが発売されるまで、1980年代以降に発売された35mm判一眼レフ用交換レンズとしては世界一明るいマクロレンズの座を譲らなかった(※1)。しかしこれは言い換えれば、明るいマクロレンズ設計の難しさと同時に、明るい開放F値によって撮影倍率が犠牲となっている実在証明ともいえるものである。
マクロレンズの定義として厳密なものは存在しないが、一般の撮影レンズが設計基準値を焦点距離の40倍程度に設定しているのに対して、マクロレンズは設計基準値が焦点距離の4倍~10倍程度に設定されている。近年のマクロレンズは巧妙な収差補正機構を組み込んで、無限遠付近での結像性能も一般レンズと比較して遜色は無いが、やはり近くでピントが合ったときに最も結像性能が良くなるように設計されている事情に変わりは無い。
また、マクロレンズは設計段階から像面の湾曲やディストーションの許容量が極めて小さく設定されているのも一つの特徴である。小さなものを大きく撮影するのもマクロレンズの役目だが、マクロレンズは精密な複写にも利用されるため、像面の平坦性や、歪みに対して極めて厳しい基準が設けられているためである。
ところで、大抵の光学メーカーが近接撮影用に特化した交換レンズをマクロレンズと呼ぶのに対して、ニコンだけが「マイクロレンズ」と呼んでいる。いったいどうしてなのだろうか。マクロレンズとマイクロレンズに違いはあるのだろうか。
ニコンのホームページの人気コラム「ニッコール千夜一夜物語」によれば、ニコンのマイクロレンズという呼び方には、ニコンがマクロレンズの開発に着手した時代背景が大きく関わっているという。当時ニコンは顕微鏡開発も数多く手がけており、複写用の近接撮影用レンズを手がけた頃には、顕微鏡用の拡大光学系レンズをマクロレンズと呼ぶ土壌が既にニコン社内にはあった。そこでいかに「大きく」写すとは言っても、撮影倍率が1/2倍~等倍程度の縮小光学系に分類される複写用の近接撮影用レンズをマクロレンズと呼ぶことには社内には大きな抵抗があり、当時マイクロフィルムへの縮撮用に開発されていた複写用レンズを、ニコンでは「マイクロニッコール」と呼ぶことになった話は有名である。また欧米で開発された複写用レンズの性能では日本語の「漢字」を判読することが出来ず、結局ニコンは必要に迫られて欧米メーカーの製品を数倍も上回る性能の複写用レンズを開発したという逸話が残っている。
もしかすると、日本製光学製品の国際市場への台頭の理由は日本の漢字文化にあったのかも知れない。
当初は文献の複写用という特殊な用途に開発されたマクロレンズは、時代を経ていまや写真を趣味とする人々にとって不可欠なものになりつつある。普段見慣れたものであってもマクロレンズで近寄って撮影することにより、意外な美しさを発見することがある。昨今ではその意外性を狙って、マクロレンズで撮られた写真だけのコンテストも企画されるほどである。また最近は高倍率ズームの普及によりズーム1本で何でも撮れてしまう時代だが、あるアンケートにおいては二本目に購入を検討している交換レンズはマクロレンズが大勢を占めたという話もあるそうだ。
ズームレンズの性能や使い勝手がどんなに向上しても、肉眼の視覚を超えたクローズアップの映像美に共感する人達が絶えない限り、マクロレンズの人気が衰えることはないだろう。
※1 アルパ用にケルン社から提供されていた「マクロスイーター」は50mmF1.8とF1.9がF2を上回る明るさを誇っていました。マクロスイーターは1/2倍までの接写が可能なレンズですが、筆者はマクロスイーターを「マクロ領域を持つ標準レンズ」と分類しています。またSIGMAからは20mm/24mm/28mmのそれぞれF1.8大口径広角レンズが「Macro」の名称で発売されていますが、これらの製品も複写や拡大撮影を直接の目的とした純然な「マクロレンズ」ではないと判断し、本文の論旨からは除外しました。