【特別版】 写真家:大門美奈 『私の視点』
2023年02月17日
50mmLeica Boutique 10周年記念Leica Special ContentsM6NoctiluxSummilux写真家
ライカで撮る理由があるのだ。
弘法筆を選ばずというが、私はそこまで達していないし達するとも思っていないから、カメラは選びたい。はじめてライカを手にしたのは2012年頃だっただろうか。マップカメラでライカM6を買う気満々だった私は最後の一押しがほしくて、ある写真家に相談したところ「M3がよいでしょう」との答えに従ってどこか別の中古カメラ店でライカM3 ダブルストロークを購入したのだった。よいカメラだった。でもフィルムの装填に何度か失敗したことが原因か、露出計が内蔵されていないことを不便に感じたのか、いつの頃からか本棚の飾りとなり、昨年ついにレンズの購入資金へと姿を変えてしまった。
というわけで満を持してのライカM6である。フィルムの装填もライカM3と比べればだいぶ楽だ。2013年にライカM-Eを購入して以来、ほとんどデジタルカメラで過ごしてきた私にとっては数年ぶりのフィルムライカである。最近になって復刻版のライカM6が登場したが、今回私の手元にやってきたのはライカM6TTL 0.72 ブラック。片側がほんのりなで肩のリラックスした姿がやさしげな印象を受ける。
私の日常はつねに写真とともにある。50mmのレンズをつければ50mmの目になり、35mmなら35mmの画角で世界を見る。私が見た世界を見せたいなんておこがましいことなど考えてもいない。そもそも写真を撮るときに何も考えていない。「こう撮ったらいい写真になる」なんて下心をみせた途端、その写真はあさましい写真になる。写真に心など写らないが、下心はなぜか写るのだ。
はじめて写真展を観に行ったのは京都だった。伯母が主催する茶会の関係で宇治へ行った折、時間ができたので父と三条あたりの骨董屋巡りをしていると店先に魅力的な写真のポスターが飾ってあったのだ。エリオット・アーウィットだった。「わたしはこっちに行ってくるね」と父とはその場で別れ、何必館(京都現代美術館)へと向かった。以前好きで聞いていた Fairground Attraction のアルバムのジャケットとなった写真も展示されていて少なからず縁を感じたものである。帰り際にはしっかりと写真集を手に携えていた。
そのときだったか、後日だったかは忘れてしまったけれど、彼がライカを使っていたということはしっかりと記憶されたのだった。
それから何年か経って私の傍にはつねにライカがある。いつかはライカなんて思っていたかもしれないし、思っていなかったかもしれないが、やはりM型ライカはしっくりくるのだ。何がいいなんて理由を挙げればいくつかあるのかもしれないが、説明すると嘘くさくなりそうだから特に言う必要もないと思っている。
M型ライカのファインダーから見える世界は少し違う。一眼レフのそれのように見たまま撮れるという気持ちよさとは異なり、ファインダーから見えた世界と実際に写った写真とのズレに面白さがあるのだろう。絵を描いていると不要なものは除くことができるが、このズレにより生じる所謂「意図しなかったもの」が入り込む面白さというのは写真ならではのものであり、それこそ写真の醍醐味なのだ。
今更フィルムがどうの、デジタルがどうのなどと言うつもりもないが、フィルムではその「意図しなかったもの」を容易に消すことができないから、面白さという点では少し上回るのかもしれない。ライカM6のファインダーを覗き、シャッタースピードと絞りリングを調整してシャッターを切る。「カッ」という歯切れの良いシャッター音を響かせたら巻き上げレバーを親指で素早く送る。楽しい。
そうだ、写真を撮る行為とは楽しいものなのだと改めて思ったりする。一枚撮ったら一枚分喜びが増えてゆく。このところのフィルムの価格高騰でそんなにたくさん撮れないよ、なんて思うかもしれないが、そもそも記憶に残るほどの楽しい記憶なんて生きているうちにそんなに多くあるものでもないだろう。
夢中になって写真を撮っているときにいちいち頭で考えてはいない。視点とは、ただ撮りたくて撮った写真のなかだけにある。ただ目の前の光がうつくしくて、あなたが私に向けてくれた表情が素敵で、その成長が嬉しくて。それ以上の理由が何か必要だろうか。
エリオット・アーウィットの言葉で好きな一節がある。「私は職業からいえばプロの写真家だが、天職はアマチュア写真家だ」まったく同感である。